
<屋島合戦の始まりについて>
「ひるで候へば・・・」(覚一本)「さるほど夜のアケボノニ」(延慶本)「辰の剋に屋島に近き武礼・高松と言う処に火い出きたり」(四部合戦状本)「20日卯の刻」(源平盛衰記)と色々書かれているが、<高松の方に火い出たり>で戦いが開始された点では一致している。前述したように、馬で屋島に渡るには干潮時しかないことを考えると源平屋島合戦の始まりは、夜明け、しかも朝早い時間である。
鎌倉本には、「佐藤嗣信、忠信、渋谷重助、是3人は軍をばせで、内裏や御所に火を懸けて片時の烟と成しにけり」とある。嗣信は赤牛崎(現在のことでん古高松駅付近)の浅瀬を渡り、内裏、御所に火を放ち、いつの間にか牟礼総門に帰り義経の身代わりとして戦死した。当時の屋島は、完全な島であり高松側とは300mほど離れていた。干潮時の極めて短い時間に内裏に火を懸け焼き落として高松側に帰る、此処にも矛盾を感じる。
<屋島御所・内裏は何処にあったのだろう?>
内裏、御所に火を懸けられ、「屋島の総門の渚より御船に召す」(延慶本)
「総門の前の渚に船共ありければ、思い思いに乗りたもう」(四部合戦状本)「総門の前のなぎさに舟どもつけならべたりければ、我も我もと乗り給う」(覚一本)とある。ここに出てくる総門は現在の牟礼総門とは全く別の物と考えざるを得ない。屋島側には、総門に関するような地名は残っていないが、源平盛衰記には「御所周辺には1500戸ほどの民家」とある。平家方の何千という人数の生活集落、それを支える職人、商人、農民の数も何千というものであったろう。
この内裏、御所が焼け、千数百戸という家屋が焼け落ちた焼け跡(炭化木材)は、膨大であり屋島壇ノ浦のどこかに眠っている。何時か発見されるであろうその場所が内裏跡だ!
御座船が停泊することを思うと、赤牛崎より遠く離れたかなり北の方である。
庵治丸山に<米はかり>の地名があり、平家の兵糧配給地であったとの言い伝えがある。屋島には田畑が皆無に近いから食料は全部古高松・牟礼・庵治方面から運搬したであろう。兵糧配給地<米はかり>に近い対岸付近に御所はあった?